布施辰治のドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」の公式ホームページです。

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生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために

布施 辰治(ふせ・たつじ) 
1880年11月13日 ~ 1953年9月13日
宮城県石巻市蛇田字南久林(旧・蛇田村)出身の弁護士・社会運動家。明治法律学校(現・明治大学)卒業。

弁護士布施辰治 顕彰碑

任侠、これ弁護士の使命なり

事項
1880(明治13)年 11月13日、宮城県牡鹿郡蛇田村(現在は石巻市蛇田)の農家に生れる。父・栄治郎33歳、母・きえ28歳。
1899(明治32)年 「哲学」を勉強するため上京(4月)。蛇田でキリスト教に遭い、神田のニコライ堂の学僕となる(8月)。
明治法律学校(明治大学の前身)入学(9月)。
1902(明治35)年 卒業(7月)。判事検事試験登用試験合格(11月)。司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任(12月)。
1903(明治36)年 宇都宮地方裁判所検事代理(4月)。検事代理辞任(挂冠の辞を発表)(8月)。
1904(明治37)年 東京小石川初音町に弁護士事務所を開く。半年で解散。
1905(明治38)年 東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開く。平沢光子と結婚。
1906(明治39)年 電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護。布施が社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件。 
1917(大正6)年 普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催す。
1918(大正7)年 米騒動事件の弁護(各地で弁護活動を行う)。
1919(大正8)年 東京の朝鮮基督教青年会館で朝鮮人学生が集会を開き、「独立宣言」を発表して60余名が警察に検挙され、9名が起訴。布施は無報酬でこの裁判の弁護に加わった。
1920(大正9)年 個人雑誌『法廷より社会へ』を発行し、「自己革命の告白」を発表。
1921(大正10)年 神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して自由法曹団創立、布施は先頭に立って活動。
1922(大正11)年 借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱。個人雑誌『生活運動』発行。
1923(大正12)年 朝鮮独立運動の義烈団事件弁護のため渡朝(7月末~8月)。東京留学生らの思想団体の北星会の講演会弁士として渡朝。
関東大震災(9月1日)下の朝鮮人虐殺事件件において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走する。
1924(大正13)年 香川県太田村伏石の小作争議の弁護。
1925(大正14)年 群馬県世良田村襲撃事件の弁護(1月)朝鮮水害罹災民救援運動(7月)
朝鮮人暴動を想定して行われた小樽高商軍事教練(10月)への抗議運動
1926(大正15)年 日本労働組合総連合会長となる(1月から約1年半在任)。
朴烈、金子文子大逆事件の大審院特別法廷の弁護(2月13日)。
1927(昭和2)年 台湾二林蔗糖農民組合騒擾事件弁護のため渡台(3月)。渡朝(10月)。京城地方法院で朝鮮共産党事件の弁護。渡朝(12月)。京城地方法院で朝鮮共産党事件の弁護。
1928(昭和3)年 解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となる。
1929(昭和4)年 日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動(昭和3年11月)を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴される(8月13日)。
1930(昭和5)年 新聞紙法違反、郵便法違反の容疑で東京区裁判所に起訴される(8月)。
1931(昭和6)年 全農全国会議弁護士団結成、幹事長となる(9月)。
1932(昭和7)年 大審院の懲戒裁判所で弁護士除名の判決確定(11月)。
1933(昭和8)年 解放運動犠牲者救援弁護士団と全農全国会議弁護士団が合併して日本労農弁護士団となる(1月)。
新聞紙法違反容疑事件、上告棄却となり「禁固3ヵ月」確定(3月)。
東京豊多摩刑務所へ下獄(4月5日)。
出獄(7月20日)。
日本労農弁護士団の治安維持法違反容疑に連座して検挙、拘置さる(9月13日)。
皇太子誕生恩赦により弁護士資格復活(12月)。
1934(昭和9)年 治安維持法違反容疑で起訴される(3月)。
1935(昭和10)年 保釈(3月。1933年9月13日から1年半の拘禁)。前進座から演劇研究所建設について相談を受け、以後前進座との関係が続く。
1937(昭和12)年 仙台弁護士会に弁護士登録(11月)し、岩手山村の入会権事件の解決に尽力。
1939(昭和14)年 治安維持法違反容疑事件が上告棄却となり「懲役2年、未決算入200日」確定(5月)。これにより仙台弁護士会の弁護士登録抹消(6月8日)。千葉刑務所へ下獄(6月26日)。
1940(昭和15)年 出獄(7月29日。神式紀元2600年記念恩赦により減刑され、在監400日)。
1944(昭和19)年 辰治の三男・杜生が治安維持法違反容疑で京都刑務所にて獄死(2月)
1945(昭和20)年 自由法曹団再結成。顧問に推される(10月)。弁護士活動再開。
1946(昭和21)年 食糧メーデー(5月19日)のプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張。このあと数年、食糧管理法違反容疑、工場生産管理、朝鮮人関係等の諸事件で活躍。
1948(昭和23)年 日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出さる。
1949(昭和24)年 三鷹事件の弁護団長となる。松川事件の弁護人となる。明大記念講堂で誕生70年記念人権擁護宣言大会(11月)。
1952(昭和27)年 血のメーデー事件の弁護。
1953(昭和28)年 永眠(9月13日。享年73)。日比谷公会堂で告別式を行う(9月24日)。

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