布施辰治のドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」の公式ホームページです。

映画解説

監督紹介

布施辰治とは

上映スケジュール

制作委員会案内

出資・協賛金募集

布施辰治を語る

お問い合わせ

リンク集

ドキュメンタリー映画 弁護士 布施辰治 映画予告

布施辰治を語る

ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」に寄せて

生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために

今回のドキュメンタリー映画撮影の経過に応じ、様々な方から、布施辰治について語っていただき、ここで発信していきます。



戦争・自死・死刑――布施の死刑論への接近―― 大石 進

 私は最近、『弁護士布施辰治』なる一書を上梓している。この書籍で全巻あげて布施の人間について語ったつもりである。このパンフでも同じことを語るよう期待されているらしいのだが、上の書籍で語りきれなかったこと、〈死刑廃止〉について再論することによって責をふさぎたい。
 布施の死刑廃止論については、山泉進教授の深い研究(「絶対的死刑廃止論と布施辰治の〈思想原則〉」大学史紀要一二号明治大学史資料センター二〇〇八)がある。しかし私個人にとっては、死刑は、私の歩んできた道ともかかわって、二つのテーマ、戦争と自死とわかちがたく結びついている。これらから入っていくことを許していただきたい。


 1 一九四八年、布施辰治の意向もあって、私はキリスト教の中学に進学した。布施はこう語ったものだ。
「信者になるか否かは大人になって進が決めればいい。ただし西欧文明の基礎であるキリスト教に対する知識と、その担っている精神とは身につけておいてほしい」。
 この中学でカソリックの教義の初歩をたたきこまれた。今なおそのときの学びは、私の中に尺度として生きている。
 必須の科目として〈社会倫理〉なる授業があった。担当はドイツ人であるH神父だった。H神父はある授業の中で、大意このようなことを語られた。
「自国民が飢えに苦しむとき、隣国に戦争を仕掛け、領土や穀物を奪うことが、許される場合がある」
 カルネアデスの板などの緊急避難の法理を拡大して考えれば、それほど荒唐無稽な言葉ではない。しかし一九四八年という時代、私は憲法普及会発行の『新しい憲法』に洗脳されつくしていたから、この言葉はショックだった。
 私は、この発言を、キリスト教一般ではなく、ゲルマンとカソリックの連立方程式で読み解こうとした。私の通った中学校の入り口には Jesuit High School なる文字が書かれていたが、十年ほど後に『パルムの僧院』を読んで、Jesuit という言葉がとんでもない意味を持つことを知った。そのことをきっかけに、jesuit(イエズス会)内での出来事をカソリック一般に広げて考えていいものなのか、いずれ確かめたいと思ったものだ。
 さらに十数年ないし二十数年の時が流れ、時を隔てて二人の神父と親交を結んだ時期があった。一人は当時J大学で教鞭を執られていた日本人でイエズス会に所属されていて、のちに生命倫理学の分野で名を残された方、というより、小学校からの級友といった方がいいかもしれない。もう一人は駐日バチカン大使の秘書を務めておられた米国人で、フランシスコ会に属されていて、鶴見和子の愛弟子でもあった。
 私はそれぞれに一九四八年の経験について感想をもとめたが、「第二バチカン公会議以後はだいぶ様子が変わった」というニュアンスを伝えるのみで、お二人のいずれからも明白な否定の言葉を聞くことはなかった。そこで〈侵略戦争が許されることがある〉というH神父の言葉はカソリック神学にとって普遍的な理解なのだろうと思い、お二人の神父との友情はそのままに、またこの宗派の正直さ真面目さに感服しながらも、私はカソリックから距離を置くことになった。
 2 私の周囲では、自死者は、カソリックでもプロテスタントでも、聖堂での告別の式を拒否されている。人のいのちは神の司るもの、それを人為で消し去ることはゆるされない。ことにカソリックでは避妊さえもゆるされないのだから、そのことの象徴として自死者の告別の司式を拒絶するというのは、理解できる道理である。しかし、キリスト教なる一神教の不寛容は十分に知りつつも――洗礼を受けていないものはすべて地獄へ堕ちるというのだから――追い詰められてみずから死を選んだわが友に“ Go to hell! ”と言い放つ宗教は、私にとって耐え難い厳しさというほかない。
 それなら、自死者の司式を拒否するキリスト教は死刑とどのように付き合うのだろうか。中世における異端審判の如き、神の名をもっていのちを奪うことが許されるのは、神が与えたいのち故に、という理屈が一応は成り立つ。しかし現実にいのちを奪うのは〈人〉であって神ではない。さらにいえば、神であろうはずもない王の名の下の処刑が許されるのはなぜなのか。王権神授の思想は王を神にするものではない。また、キリスト教の支配する文化の中で決闘が許されていたのは不条理ではないか。
 以上が自死とかかわって私の心に消え浮かびしてきた疑問であった。
 3 ここで最初の課題に立ち返ることになる。戦争とは国家の名による大量殺人だが、国家は神ではない。他殺はもとより、自死、つまり自己決定に基づく死すら禁止する教義が、なぜ戦争を公認するのか。
 私は人のいのちを(他の生物のいのちと区別して)〈神の司るもの〉とするキリスト教においてこそ、死刑と戦争の廃絶が主張されるべきだと思うのだが、現実はそうではない。しかしこの宗教が、歴史上の多くの過誤を超えて、死刑と戦争の廃絶にたどり着くかすかな可能性があるとも思っている。こう語るとき私は身近なものとしてヨハネパウロⅡ世のカソリック教会を代表しての自己批判と平和への献身を想起している。さらにトルストイのごとき、またフレンド派(日本のそれは知らないが)のごとき、少数派の思想こそ、真にキリスト者的なのだとも思っている。もとより私たちは日蓮・法然・親鸞それぞれの限りない優しさを知っている。他の宗教の教義からも、戦争と死刑の廃絶が導き出されることを疑わない。


 長すぎる前置きはここまでにして、主題である布施の死刑廃止論に入る。
 トルストイアンとも称されることのある布施の人の死をめぐる理論は、これらのキリスト教少数派から導かれるであろうそれと、どうかかわるのだろうか。結論においてどんな違いがあるのだろうか。二つの事件を素材に見ていくこととする。
 二つの事件とは、ギロチン社事件と、朴烈金子文子の大逆事件である。
 ギロチン社事件  震災時の大杉栄ら虐殺への復讐としてなされたアナキストたちの戒厳司令官福田大将狙撃と無差別テロ。これは一九七〇年代の過激派の犯行を思い起こさせる。アナキストには、もう一つの側面、略奪と遊興があるが、古田大二郎は遊興とは無縁だったが、彼らの戦闘資金獲得のための非政治的な強盗事件(小坂事件)で殺人を犯している。古田は、逮捕されると、自分が犯した犯罪は隠し立てせず自白する。それと同時に「私が刑を受けるのは当然であるし、その覚悟はできている」と明言し、弁護人に対しても、減刑活動をしないでほしいと主張する。布施は山崎今朝弥とともに死刑求刑を不当とする弁論はしたが、古田の願いのままに、控訴を説得しないで処刑を認めている。
 布施はこう語っている。
「テロリストは人命を奪い闘争資金を獲得する。つまり……その運動のために自分の命を絶ってもいいという理論の上に立たなければテロは出来ない。弁護の結果は死刑の判決を受けたが、僕はその理論を成り立たせるために控訴させなかった。奪われたものの命を自分の犠牲と同じ高さにおいて評価するためには、自分の命を捨てて見せなければ口先ばかりでしょう。」
 布施においては、創造主たる神は存在しない。いのちは神に与えられたものではない。いのちは大切なものだが絶対ではなく、他の価値と対比させられることがある。対比する主体はいのちの持ち主でなければならない。この場合、古田の生命と対比される価値は、テロリズムの持つべき道義・道理であり、あるいは美学である。
 古田が処刑されたのは、一九二五年一〇月一五日だった。布施は古田の絞首遺体を自宅に引き取り法要を営んだが、そのときの写真が残っている。古田は、すべての借りを返し終えたかのような穏やかな顔をして横たわっている。往年のベストセラー『死の懺悔』における古田のさわやかな文体そのものである。布施はこの穏やかな顔から、(悩みに悩んだ末に)控訴を説得しなかった自己の判断ないし行動が正しかったことを確信しただろう。そのことが次の事件における布施の行動を規定したに違いない。
 朴烈 金子文子大逆事件  朴烈と金子文子が大逆罪で起訴されたのは、古田の処刑から五日の後、一〇月二〇日である。震災直後に保護検束されてから二年以上の歳月が流れている。この起訴はアナキスト古田の処刑に対する世論の動向を見据えた上のことだったに違いない。
 朴烈金子文子事件で布施は、でっち上げ明白な大逆罪の擬律を争うことなく、むしろ大逆罪をえさに日本帝国糾弾の論陣を張ろうとする二人の舞台作りに協力する。
 大逆罪には死刑以外の刑罰は存在しない。つまり布施は被告人の死刑を争わないのである。布施は、みずからのいのちに価値を見ないニヒリスト朴烈 金子文子の自己決定を尊重しつつ、二人にとってのいのち以上の価値を実現しようとする。いのち以上の価値とは何か。それは大逆の正当性を、全朝鮮人の声としてパフォーマンスすることである。
 一八九五年に、すでに朝鮮の民は王妃閔妃を日本によって虐殺されている。しかも日本の裁判所は、閔妃暗殺の大逆犯たちの行動を黙認したのである。朝鮮の民にとって、大逆は、疑いなく正義の復讐であった。
 死刑判決と減刑、そして金子文子の栃木女子刑務所における自死と遺体の下げ渡しの経過をここでくり返すつもりはない。夏の盛りに死後八日もたった一九二六年七月三一日未明、文子の腐乱死体を合戦場(かっせんば)墓地から掘りおこし、水のしたたる遺体を大八車に積んで二里も離れた火葬場に運ぶのは、如何に布施とて気持ちのいいものではなかったろう。二人の無期への減刑を喜んだ布施ではあったが、文子の死を見たそのとき以降は、拒み抜いた天皇の名による減刑(憲法一六条・恩赦令六条)など行わず希望どおりに処刑されていたら、文子の遺体は、文子の顔は、その精神同様に誇りに満ちて美しいものとして布施たちの前にあったろうと思いもしたのではないか。文子の精神の美しさ強さは、死後五年を経て刊行された彼女の手記『何が私をこうさせたか』があますところなく証明している。

 1 二つの事件を通して見ることができる布施の死刑廃止論の根幹は何か。それは被告人個々の生への意志、生きたいと思う心に絶対的価値をおくということである。意志といい心ということは、最終的にはいのちは自己決定にゆだねられるべきもので権力が奪うことのゆるされないものだということである。このことの帰結として、自死は最終的には、各人の自由ということになるし、当然、〈尊厳死〉の肯定につながる。そして戦争は、敵とされた個々人の自己決定に委ねられるべきそれぞれのいのちを奪うのだから、禁絶されるべきことになる。
 基本はひと(個人)であり神ではない。このことは布施の〈民衆〉が、抽象的な階級ではなく、弱き個々人であることと関係する。また、布施が〈刑事弁護士〉であることともかかわる。
 ここで確認しておかなければならないのは、自己なるものの脆弱さである。日常の購買行動から異性に対する口説き(口説かれ)まで、ひとは外部から影響を受ける存在である。獄中では容易に虚偽の自白をする。〈死〉に関しても例外ではない。権力は靖国なるヴァルハラを作り出しもしようし、異人を鬼畜に、殺すべき対象に措定したりもする。みずからの自己決定の脆弱を知るが故に、私たちは隣人の自己決定の合理性に意見を差し挟み助言を与えあいたいものである。しかもなおかつ最終的には、ひとのいのちは、権力でも宗教でもなく、自己の決定にゆだねられるべきものだ、ということである。
 2 布施の死刑禁絶論のもう一つの根幹は、布施が九十余人の死刑囚を見送ったという事実である。救わんとして救い得なかった九十数人との別れの体験は、みずからの命を守るためにたたかう彼らの闘争への共感を生んだ。
 以下は〈自己革命の告白〉(一九二〇)後最初に手がけた事件である市電争議による勾留者たちに対する手紙の一部である。
「私の力に許された弁護の上に尽力して裁判上に救い得るものはこれを裁判上に救い、萬々一にも今日の裁判上どうしても救い出す事のできないものはその犠牲の大を輿論に訴えて社会的に救い出したいと念じて居ります。」
 死刑犯と勾留者とは違う。しかし「どうしても救い出す事のできないものはその犠牲の大を輿論に訴えて社会的に救い出(す)」、その思いに違いがあるはずはない。死刑判決から被告人を救出できなかった布施は、死刑制度の不当を訴えてこの制度の廃絶に努めなければならない。このことは布施にとって、死刑囚たる依頼人との黙契だった。
 布施の自己革命の姿勢はここでも貫徹している。理論である以上に布施の死刑廃絶は実践なのだ。

 布施の死刑論に接したときによみがえったいくつかの記憶、それが布施の勧めに従ってカソリックの中学に進んだことから生じていることに、思いひとしおである。



書籍紹介 「弁護士 布施辰治」

大石 進 著

布施辰治の生い立ちから刑事弁護士へ、自己革命から自身の受難へ、植民地の民との共闘、関東大震災での奮闘、戦後弁護士活動再開、憲法私案、最後の大舞台三鷹事件など、「ピカイチの刑事弁護士だったが、負けを覚悟で全力で弱者とともに闘い・・・、救い得なかった死刑囚の菩提を弔うことを自らの使命とした」(あとがきより)布施辰治弁護士を祖父として、愛をこめて静かに語る名著です。ぜひご購読を。西田書店刊 313ページ 定価2415円(税込み)。

製作委員会でも取り扱っております。
(発送費込み2800円でお願いしております)

詳細はこちら



これからの法律家と布施辰治 ― 伊藤真 伊藤塾塾長・弁護士 ―

 私は日々、法律家を目指す学生・市民に法律を教えています。毎年多くの学生・市民が私の塾に入塾し、法律の勉強に励み、司法試験に合格し、弁護士、裁判官、検察官などとして活躍しています。
 司法試験は簡単な試験ではなく、膨大な法的知識と適切な法的思考を身につけなければならず、私はそのための最も合理的な指導方法を開発し、実践してきました。同時に、私は塾生たちに対して、司法試験の「合格後」にどのような法律家になるのかを考えるよう指導してきました。具体的には、日常的な講義の際に塾生たちに話しをするほか、毎月現職の法律家や事件・裁判の当事者などを招く講演会を開催し、事件当事者の苦しみ・悲しみ・悩み・喜びなどをお聞きしながら、法律家に求められることを学び考えてきました。また、毎年、沖縄や韓国・中国などへのスタディツアーを実施し、戦争被害者のお話なども聞き、アジアにおける法律家の役割などを考えてきました。
 私が塾生たちに「合格後」を考えるよう指導しているのは、何のために法律家になるのかを自らに問い続け、鍛え上げた能力を私利私欲でなく、人のために使ってほしいと願っているからです。社会から求められる真の法律家になってもらいたい。不正義や理不尽なことに苦しんでいる人々をサポートして欲しい。すべての人が個人として尊重されるよう、その憲法の考え方を広げたい、と思うからです。
 これまで実に多くの塾生が「合格後」を考え、司法試験に合格し、全国各地で立派に法律家として活躍してくれています。派遣切りされ仕事と住居を失ってしまった人を法的にサポートしている弁護士、悪徳商法の被害を受けたり、多重債務にさいなまれている人をサポートしている弁護士、交通事故・医療事故に遭遇してしまった人をサポートする弁護士、報道に関わる被害を受けたり名誉を傷つけられてしまった人をサポートする弁護士、子どもや障害者、外国人などの人権の救済・確立にあたっている弁護士、家族間のトラブルの解決にあたっている弁護士、不当な刑罰を受けることのないよう被疑者・被告人の弁護をしている弁護士、冤罪被害者の救済にあたっている弁護士、苦しい企業経営をサポートしている弁護士、日常的に企業活動への法的サポートにあたりながらも人権活動に取り組んでいる弁護士、弁護士過疎地域に赴き多くの市民の法的ニーズに応えている弁護士、個別の事件・裁判に関わりながらも公共政策確立への提案や運動にも携わっている弁護士、よりよき司法制度の確立にむけた活動をしている弁護士、司法試験合格後にアフリカの新興国で法律整備のボランティアをした弁護士、諸外国における人権侵害をなくす活動をしている弁護士もいます。社会的な不正義を摘発している検察官や当事者の言い分に誠実に耳を傾け公正な判断をしている裁判官も数多くいます。嬉しい限りです。
しかし、残念ながら世の中の不正義・理不尽はまだまだ山のようにあり、法的サポートを求める人々に尽くす法律家をもっともっと増やさなければならないと思っています。
 このたび弁護士・布施辰治を描くドキュメンタリー映画がつくられることになりましたが、この映画はこれから法律家になろうという人たちにとっても有意義な作品になるに違いありません。法律家をめざす人たちは、戦前から戦後にかけて人権と平和のために果敢にたたかった布施辰治の姿に接することによって、法律家の使命とやりがいを感じ取り、勇気をもらうことになるでしょう。

 布施辰治は「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」という言葉を残したように、生涯を庶民や弱者とともに生きました。思想、言論の自由が著しく制限されていた明治憲法の時代から、平和と人権のために最後まで闘い続け、弁護士資格の剥奪や2度の受刑生活などの困難にもかかわらず最後まで権力に屈することなく、信念を貫き通しました。朝鮮人、日本人の別なく、男女の別なく、一人一人を人間として尊重するため、反戦、死刑廃止、労働者の権利、表現の自由そして男女平等普通選挙を実現しようと全国で人々にその意義を説いて回りました。そして1925年には男子普通選挙法が成立し、戦後になってようやく男女平等普通選挙も実現しました。戦後の日本国憲法の価値を先取りして、その価値のために闘い続けたこうした先人たちがいたからこそ、日本の民主主義の基盤ができたのです。これからの法律家にはこうした歴史の事実を学び、それをふまえて活躍されることを強く期待します。

 私は毎年、塾生たちと韓国スタディツアーに行き、日本が朝鮮半島を侵略した事実に向き合ってきました。毎回、戦時中に日本軍の「慰安婦」にさせられた方々にもお会いし、そのお話し・訴えを聞いています。朝鮮半島での日本の過去の過ちは決して許されるものではないということを痛感します。同時に、韓国の人々は過去の日本の蛮行を反省する日本人に温かく接してくださいます。布施辰治が日本人で初めて韓国「建国勲章」を受章したのも頷けます。私たち日本人が過去の日本の歴史に真剣に向き合うことで、信頼関係に基づく真に友好的な日韓関係が築かれ、平和な東アジアをつくっていくことは可能であると感じます。そのためにも布施辰治の映画を広げることは重要であり、私も力を尽くしていきたいと思います。

昨年、アメリカにオバマ政権が誕生し、核のない世界への模索が始まりました。日本でも、自民党中心の政権から民主党中心の政権に交代し、新しい政治への試みが始まっています。法律家には司法の場で大いに役割を発揮してもらう必要がありますが、立法、行政、経済などの場においてもその活躍への期待が広がっています。厳しい時代を切り開いていった布施辰治に学び、私も社会に役立つ法律家の輩出に邁進する所存です。



顕彰運動のこれまでと、これからと ― 庄司捷彦 弁護士(石巻市在住)―

(1)弁護士布施辰治に関する記述は、「1880年11月13日、宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市)に生まれる」で始まることが通例である。私は1943年の生まれであり、物心ついた頃から「蛇田村」は既に石巻市の一部との認識であった。しかし、弁護士布施辰治の生涯を考えるとき、この認識では捉えきれないものが残るのだという。このことを教えてくれたのが、この3月に出版された令孫大石進氏の著作「弁護士布施辰治」(西田書店)である。その冒頭の記述に「港町石巻は華美、消費の地であり、農村蛇田は質実、生産の地だ」とあったのである。さらに著者は「布施の農民性は、彼を理解する鍵である」と記している。私にとって、この指摘は新鮮である。弁護士布施辰治という存在を考えるとき、「郷土の偉人」という視点からだけではなく、「蛇田の田んぼで泥まみれになって働いていた青年」という観点からも、その行動や思想を捉えることの大切さを教えていると思われるからである。
 また、この著作では、弁護士布施辰治が影響を受けた思想について、中国の思想家墨子、ロシアのトルストイ、フランスのヴィクトル・ユゴーを指摘しているが、このことも、弁護士布施辰治の人生を理解する上で重要な示唆を与えてくれているのではないだろうか。
 故郷に住んでいるからといって弁護士布施辰治に関する情報・知識が自然にあるいは当然に流れて来るものではない。この著作のように、そして今進行しているドキュメンタリー映画のように、全国的に展開しているさまざまな企画や研究への関心を持続することが大切だと痛感している次第である。
(2)ところで、故郷での弁護士布施辰治の顕彰運動は、1986(昭和61)年に市民有志が33回忌を企画し、催したのが最初と記録されている。その前年頃から、古本屋「三十五反」に集まっていた市民の中で自然発生的に「弁護士布施辰治の生涯を学ぼう」との動きが始まっていた。その端緒になったのが岩波新書「ある弁護士の生涯」(布施柑治著)であり、これを読んで「石巻出身のこんな凄い人がいる」と古書店で知り合った仲間に声をかけた、近くの開業医菊田昇氏の行動であった。彼の提唱で「33回忌」が企画・実施された。場所は布施辰治の生家からほど近い「浜江場公民館」。当時北海道にお住まいだった布施鉄治(令孫)さんや大石乃文子(長女)さん、そして大石進氏にもご出席を頂いたし、これらの方々から提供をされた、いくつもの遺品が会場を飾った。この企画の過程で「弁護士布施辰治を顕彰する市民の会」が結成され、顕彰運動がスタートしたのだった。当初は、浜江場公民館の敷地に今もある小さな石碑(故太田隆策氏-辰治の甥-が建立したもので「弁護士布施辰治生誕の地」と刻まれている)の拓本を作ったり、布施辰治の直筆の色紙を復刻して販売し、会の財政にしたり、定期的な勉強会を重ねるなど、地味な活動を継続していた。折に触れて、上記の布施鉄治氏、大石進氏、更には名古屋市立女子短期大学(当時)教授であった森正先生などの方々に講演をお願いしたこともあった。
 その後、ご遺族の方々から、お手元に保管されていた「辰治関連資料」を一括して石巻市に「寄贈・寄託」するとの申し入れをうけたが、これの実現についても菊田昇医師に大きな力を発揮して頂いた。これらの資料は今、石巻文化センターに保管されている。
(3)2003年9月、弁護士布施辰治の顕彰運動は初めて仙台に進出した。「没50年記念講演会」を実施して、竹澤哲夫弁護士、名古屋から森正先生、そして大石進氏に語って頂いた。翌年、韓国政府から叙勲があった時、私はひそかに、前年に上記後援会を企画実施していてよかったと安堵したことを記憶している。
 叙勲以後、様々な動きの中から、現在進行している映画作成に相成った。地元での撮影への協力、資金集め、そして何よりも「弁護士布施辰治」への関心の高め方など、為すべき事が山積する状況となった。幸いしたのは、阿部三郎弁護士(元日弁連会長)が隣町の女川町のご出身であったこと。阿部先生には、自治体だけではなく、東北電力その他地元の有力企業にも働きかけをしていただいた。その成果は、自治体の長が2人もエキストラの先頭になって活躍して下さったり、東北電力が自社主催の展示会を12日間も開催されことなどに明らかである。
(4)今年、日韓併合100年の年、様々な企画が、日本でも韓国でも企画されている。外国人として唯一人、韓国政府から上記叙勲を受けている弁護士布施辰治は、否応なく、多くの注目を浴びている。私の元にも、弁護士布施辰治についての講演依頼が、県内外から寄せられている。勿論、映画の上映時期や上映方法についての問い合わせも数多い。
 これからの顕彰運動に課せられている第1のものは、全国的に弁護士布施辰治の名と事績を知ってもらうことであろう。そのためには完成間近な映画の普及が決定的である。そして、継続的な顕彰運動とするためには、例えば「田中正造大学」などに学びながら、民衆のなかに根を下ろす形での運動が求められている。この観点から見ても、今回出版された大石氏の著作には、学びの対象としての辰治像が具体的に記述されていると思われる。更に、今年3月に宮城県の有志が企画し実施した「弁護士布施辰治の足跡を訪ねる旅・韓国」のような、外国にまでウイングを拡げた学習活動も求められてくるだろう。既に国内のある旅行社は、韓国への旅行企画を検討中であると聞いている。
 それにしても、顕彰の対象である弁護士布施辰治の人間としての大きさに圧倒される思いを抱いているのは、私だけではないだろう。そして、弁護士布施辰治が求めた多くの事柄(例えば死刑廃止の課題、例えば自白偏重排除の課題など)が現在もなお未達成であることにも思いを馳せつつ、顕彰運動を継続していくつもりでいる。



憲法と布施辰治 ― 森 正 名古屋市立大学名誉教授 ―

 編集部から要請されたテーマは、「憲法と布施辰治」である。すぐに思い浮かぶのは、明治憲法との関係であり、日本敗戦からまもなく発表した「憲法改正私案」と「朝鮮建国憲法草案私稿」である。少し堅苦しい話になりそうだが、布施辰治の思想と行動の本質にふれる論点を示したいのでお許しをいただきたい。
 まず明治憲法との関係であるが、明治憲法下での弁護活動と社会運動はきわめて戦闘的・急進的であり、在野精神を堅持した布施は弁護士界でまさに異色の存在だった。作家で社会運動家の中西伊之助が「社会活動の発電所」と表現したように、人権擁護や普通選挙運動で国内外を東奔西走しており、植民地支配に苦しむ朝鮮人から「我らの弁護士ポシ・ジンチ(布施辰治)」と親しまれ、時には「神様」と敬われることもあった。台湾人も同じような感情を抱いていただろう。
 二回に及ぶ弁護士資格剥奪・入獄に象徴されるように、布施と国家(権力)は長期間にわたって激しく対立したので、国家の基本法=明治憲法をまったく認めなかった人物だと思われているかもしれない。しかし、布施は明治憲法を否定していたわけではない。学説でいえば、明治憲法の近代的な側面に光を当てた美濃部達吉の天皇機関説、吉野作造の民本主義論に共鳴していたといえる。最初の著書『君民同治の理想と普通選挙』(1917年)で、布施は国体の基本を「君民同治」と捉えているが、明治憲法時代にその考えがブレるようなことはなかった。条件付きではあるが、この一点で、布施は社会主義者や共産主義者ではなかったといえるのである。
 にもかかわらず布施の諸活動の多くは急進的であり、実質的には明治憲法(体制)の大改革を要求していたといえ、国家(権力)はそんな布施を嫌悪・警戒し、弾圧の機会を窺いつづけた。布施を急進的にさせたのは、社会的経済的弱者・政治的少数者の人権擁護を自らの使命と自覚し、明治憲法の前近代的な側面と厳しく対峙したからである、というのが私の理解である。布施は明治憲法下で、現行弁護士法(1949年)における弁護士の使命=人権の擁護と社会正義の実現に殉じている。その情熱は、治安維持法違反事件での被告保釈中も刑事同行で東北北上山地の入会権調査へと向かわせ、現地の人々を感激させている。
 重要なことは、布施の国民認識、および権利認識が明治憲法のそれと違っていたことである。明治憲法では国民は主権者天皇の政治支配の客体者と位置づけられ、その結果、国民の権利は天皇の思召しと捉えられており、しかも「法律ノ範囲内二於テ」のみ保障するという、いわゆる法律の留保付き権利であった。それにたいして布施は、国民を政治と権利の主体者と位置づけ(前述の「君民同治」はその意味)、その権利を天賦・不可侵・不可譲の自然権=基本的人権と捉えていた。布施は米騒動事件の法廷弁論で騒動に革命行動を含意させながらその正当性を論じ、民衆をして革命を含む変革の主体と捉えていることを示唆しているが、米騒動に結集した民衆の熱気に煽られたわけではなく、大正デモクラシー運動のなかで力量をつけてきた民衆への信頼感と自らの人権思想の発露としての弁論だった。
 あと一つ重要なことは、布施は近代日本における諸思潮、すなわち自由民権思想・東洋思想・キリスト教思想・社会主義思想・トルストイ思想、さらには鉱毒被害を告発する田中正造の思想と行動などを、実践的に学びかつ検証するなかで人権思想を形成していったということである。ロックやモンテスキュー、ルソーら西洋の啓蒙思想だけを学んだわけではないのである。
 独自の人権思想を形成した布施は、自らを「人道主義者」と称している。武者小路実篤や有島武郎ら白樺派の「人道主義者」とは違う意味で、私もまた布施を人道主義者と理解している。布施が自称する人道主義者の像は、明治憲法下の日常社会で個々人・民衆と接点をもち、同じ次元で悩み苦しみ、そして闘うなかで到達した〝自画像〟であった。
 日本国憲法はGHQ(連合軍総司令部)の押し付けだ、憲法の人権カタログは丸ごと欧米の人権思想の直輸入だ、などという乱暴な説がある。この説が正しいとすれば、明治憲法(体制)と厳しく向き合いながら基本的人権思想を身につけ、それの実現を懸命に模索しつづけた、布施のような日本人の事績はどんな意味があったのかということになる。憲法制定を主導したのはGHQだったが、マッカーサー憲法草案は重要な点で日本の民間憲法案を参考にしたという事実を見落としてはいけない。
 というわけで布施辰治の憲法案について考えてみたいが、以上のような明治憲法との関係からして、布施が自国の憲法制定にいち早く反応し、「憲法改正私案」(1946年1月1日付)を発表するのは当然だったというべきだろう。しかし、「朝鮮建国憲法草案私稿」(45年12月1日付。発表は46年4月)は、まさに驚きの文書といわざるをえない。
 これら二つの憲法案(以下、前者を(1)、後者を(2)と表示)の構想時期であるが、(1)は日本敗戦の1945年8月から2、3カ月後に、(2)についてはなんと敗戦翌月の9月に開始している。日本敗戦=朝鮮解放=建国という緊急事態下で、布施はきわめて迅速に朝鮮人のために動いたのである。布施は、「朝鮮独立運動闘士と諮って構想し、結局、朴烈君を委員長とする建国促進会の大学テキストとして執筆した」、「わたくし独自の国家観と世界観を織り交ぜた民主国家建設の具体的な構想を最も自由な朝鮮建国の憲法草案に表現してみたいと考へた思索である」などと述べている。
 それにしても、独立朝鮮の憲法案を構想する日本人が実際にいて、そして朝鮮人がそれを受け入れて学ぼうとしていた……という事実が驚きである。(2)=「朝鮮建国憲法草案私稿」は、明治憲法下で布施と朝鮮人が育んだ友情と連帯心が本物だった証しでもある。
 二つの憲法案の特徴を指摘すると、(1)は国民主権・象徴天皇制・非武装平和主義、(2)は国民主権・大統領制・非武装平和主義、である。残念ながら(1)、(2)とも未だ本格的に検討されていないが、前者については、最近、マッカーサー憲法草案の象徴天皇制構想に影響を与えたという説が出されている。
 布施は(2)の序文で、あらゆる武装を解除した国家は、「文化国家建設の理想を高く掲げて、世界に先駆する建国憲法の基礎方針を確立することが出来る」と述べている。(1)についても同じ考えだっただろう。
 「東アジア共同体」――、布施は二つの憲法案にこの大きな夢を託していたのではないだろうか。もちろん、平和を愛する「民」の立場から。2004年、韓国政府は布施に韓国独立勲章を授与したが、そのさいの羅鐘一韓国大使の言葉、「勲章の授与は、韓国と日本の新たな協力時代を開いていきたいという韓国の誓いである」は、はなはだ示唆的である。今年2010年は韓国併合から百年という節目の年である。私たちは今こそ布施の事績を見つめ直し、学び、かつ実践してみたいものである。



人権と布施辰治 ― 鈴木亜英 日本国民救援会会長 ―

 私が生まれたのは1940年5月である。戦争たけなわの4歳のとき、私は遊びに行った先の友だちの家でその母親から、「こんな頭をしてちゃダメ」とバリカンで丸坊主にされて帰宅したことがある。いつもは穏やかな私の母が、烈火のごとく怒ったのを今でも覚えている。子供の頭をおかっぱにしておく自由もままならない時代であった。終戦を信州木曾福島の疎開先で迎えた私はわずか5歳であったが、帰京しての生活は空襲警報や灯火管制からの解放であり、何よりも栄養失調からの脱却であった。そのとき私が平和のまぶしさを存分に感じたのは戦争はもういやだという思いが身体に沈澱していたからに違いない。
 私が弁護士になった1968年は戦後の激動期はひと山超えていたとはいえ、労働運動と民主主義擁護の諸闘争に対する資本と権力による攻撃の激しさは尋常ではなかった。自由法曹団に加入し、その志を生かそうと東京の多摩地域にその拠点を構えた私にも一息つく間もない激務が待っていた。次々に持ち込まれる解雇事件や刑事弾圧事件。その法廷活動や打ち合わせはいつも深夜に及んだ。たまたま時間が空いて夜の8時に帰宅した私に妻が「どうしたの?身体でも悪いの、こんなに早く」と訝しげに尋ねたのを忘れない。
 身体がいつまで持つか考えなかったわけではないが、仕事を辛いと思ったことは一度もなかった。それと云うのも司法修習生時代、私は「ある弁護士の生涯―布施辰治」を読み、あの時代、あの状況のなかで、あのように生きた布施に私は強い羨ましさを感じた。自らのご子息まで犠牲にしたあの暗い谷間の時代ではあったがこれにひるむことなく向き合った布施の時代。これを共有することはできないが、彼が展望したであろう未来への道を困難はあっても歩んでみたいと思ったからである。
私はいま国民救援会の仕事をしている。国民救援会は1928年4月、野田醤油の大争議の支援から出発していることは知られている。この時代、労働争議と小作争議が頻発した。他方、中国への侵略戦争を急ぐ日本帝国主義の戦争計画は着々と準備された。人々はこれと対峙して自由と民主主義の旗を掲げて闘った。しかし治安維持法による3・15弾圧は1600名に及ぶ共産党員とその支持者を検挙した。この弾圧の直後の4・7の解放運動犠牲者救援会(国民救援会の前身)の創立総会は危機を感じて続々詰め掛けた600名の聴衆によって会場は埋め尽くされたという。創立者のひとりであった布施の演説に嵐のような拍手で応えた満員の会場は市民的政治的自由を窒息させまいとする決意が溢ぎっていたことだろう。3・15,4・16公判闘争における布施の活躍は私が語るまでもない。しかし、その後の引き続く治安維持法の猛威と天皇制軍国主義はこれまで日本国民がわずかであっても持っていた市民的政治的自由を奪い尽すものであった。布施が闘った天皇制の抑圧と戦争は多くの犠牲を出して終わった。
新しい憲法の下で、人々は戦前とは比べものにならない市民的、政治的自由を獲得した。人々は自由に集い、語り合える時代が来たようにも思える。しかし本物の市民的自由を求め、民主主義を求めたとき、私たちはそこに立ちはだかる壁のようなものを感じる。終戦という一つの出来ことがこれを打ち壊してくれたとは思えない。私はこれまでいくつもの公選法弾圧事件、緒方宅電話盗聴事件、私自身の思想調査事件、堀越国公法弾圧事件などを通じて市民的自由を守る闘いに参加してきた。しかし布施が闘った時代と私たちが闘っている今とではどれ程の本質的な違いがあるかと問われれば、不確かである。
 苦難を強いられたアジアの人々に対し戦後補償裁判はどのような判決で応えたであろうか。日の丸・君が代の強制に反対して立ち上がった教員に対し都道府県はどのような扱いをしたであろうか。自衛隊宿舎に反戦ビラを配っただけで活動家が、集合住宅に政党のビラを投函しただけで市民や公務員が、逮捕され次々と有罪とされているのが言論表現の自由をめぐる最近の特徴である。最高裁判決はビラ配布のための集合住宅の戸口ポスト付近への立ち入りを違法とし、言論表現の自由とのかかわりでは、たとえ思想を外部に発表するための手段であっても他人の権利の侵害は許されないとして、私生活を営む権利や建物管理権を表現の自由のうえに置く結論を導いて憚らない。表現の自由という市民的自由の中核にある人権さえ、刑法や国家公務員法という法律の枠内でしか認められないとしたら、人権を法律の範囲内でしか認めなかった戦前の帝国憲法と果してどの程度違うのであろうか。世界の流れに取り残されつつあるわが国の人権。監視すべき裁判所が時代と権力に臆病であり続けた歴史は変わってはいない。
 人権ほど脆いものはないが、同時に人権ほど逞しいものもないと思う。ときに政治に翻弄されることもあるものの、人権には不当な権力行使を押さえ込む力がある。今私たちはグローバルな時代に生きているが、日本の人権状況は残念ながら戦前を引き摺っており国際性を勝ち得ていない。世界の人々が到達した人権の国際基準を充分に享受できる社会が欲しい。「侵すことのできない永久の権利」だとされる憲法的な自由と人権に息を吹き込み、それを本物ならしめるために私たちはグローバルな人権基準を日本の中に打ち立てる必要がある。人権にかかわる私たちの課題はそこにある。布施が願ったすべての人々に差別のない市民的政治的自由の漲る社会である。



渋谷定輔と布施辰治 ― 本多明美 元渋谷定輔文庫資料整理員 ―

埼玉県富士見市出身の渋谷定輔(1905―89)は、農民詩集『野良に叫ぶ』(平凡社、1926年)、また大正時代末、地主制度下の農民の厳しい生活を日記録で描いた『農民哀史』(勁草書房、1970年)を代表著作とする。一方で、渋谷は、大正末から昭和初期は農民運動家として活動し、戦後は、政治・経済・文化運動に携わり、故郷富士見市では、社会教育活動に熱心に関わった。渋谷の所蔵資料五万点以上(図書・雑誌・新聞・文書など)は一括遺贈され、1994年、富士見市立中央図書館は渋谷定輔文庫(以下「渋谷文庫」と略記)を設置、資料を保存し、閲覧提供を行っている。
 布施辰治は、「生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」の言葉が示すように、常に弱者の側に立つ弁護士としてあり、戦前において植民地朝鮮、台湾の人々へ支援活動を行っただけでなく、労働、農民運動など社会運動関係者の多くの裁判において弁護活動を担っていた。農民運動では、岩手県の入会訴訟に長く関わり、また各地の小作争議を支えたが、布施の埼玉県での活躍は、渋谷定輔との関わりから見えてくる。さらに運動上の関係を越えて、渋谷は布施から人間的に大きな影響を受けたと考えられる。渋谷文庫に収蔵された布施関係資料から読み取れる布施の一端、並びに二人の交流を紹介したい。
1922~24年、17歳の渋谷は故郷南畑村(現在富士見市)で発生した小作争議に加わる。しかし勝利後に小作人の団結は逆に弱体化してしまう体験をする。農民への教育活動を痛感した渋谷は、自身の詩集を出版した平凡社社長下中弥三郎、また中西伊之助(労働運動家)らと共に、1925年12月、農民自治会を結成する。その法律顧問となったのが布施辰治弁護士であった。渋谷は『農民哀史』の原記録となる日記、26年3月7日、12日の項に、「佐藤義和氏が朝鮮から」「布施氏から絵はがきで便り」と、裁判準備のため朝鮮に渡っていた布施一行から便りがあったことを記し、この頃から布施と渋谷の交流が始まったと確認される。その後、渋谷は農民自治会を脱退、29年、全国農民組合埼玉県連合会(全農埼連)へと活動の場を移す。
全農埼連は、すぐに福岡村(現在ふじみ野市)で進められていた陸軍省火工廠建設問題に取り組み、火工廠設置反対耕作権擁護同盟を組織、8月、渋谷は福岡村の農民数十名を連れ陸軍省へ陳情に向かう。その時同行したのが、布施弁護士であった。布施なくしては起こせなかった、陸軍省への直接要求行動であったろう。30年、全農埼連は、共済会被害金奪還同盟、田畑小作料五割引要求同盟という運動を始める。共済会被害金奪還同盟とは、農民、労働者の零細な資金を横領した帝国共済会などに対する払込金奪還闘争である。その公判が熊谷地方裁判所で開かれ、「無産者の血と汗で出来た掛金をゴマカソウとする彼等の裁判が開かれる。被害者はモチロン、無産者は皆傍聴に押かけて、吾等の布施弁ゴ士を応援しろ!」と書かれたビラがまかれる。田畑小作料五割引要求同盟は、高率の小作料に苦しむ小作農民が、地主に小作料五割引を要求した運動だが、30年秋から冬にかけ県内各地で「小作問題大演説会」が開催され、布施が登場する。増林村(現在越谷市)で開かれた演説会のビラでは、「俺レラの弁護士布施辰治氏が来るぞ 俺れ達小作人の叫び 米も青物もまるでタダのような捨値だ 小作年貢 畑金を五割負けにしろ」と、記される。全農埼連と共に布施は法廷闘争を展開し、各地の演説会で熱弁をふるう。「吾等の布施弁護士」「俺レラの弁護士」と称された布施は、農民から大きな期待と信頼を寄せられる存在であった。
渋谷は、さらに全国農民組合内で労農政党派を批判する左派として、支持拡大に動く。30年3月、雑誌『農民闘争』を発刊、創刊号発起人の辞には、渋谷定輔、布施辰治以下14名の名前が並ぶ。『農民闘争』1巻2号では、渋谷、布施の連名で「『農民闘争』の質疑応答に就いて」が掲載され、3号の質疑応答欄は、さっそく布施が「立入禁止の撃退策」を回答している。
一方で布施は、日本共産党三・一五検挙事件の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされ、懲戒裁判所に起訴される。各地で懲戒裁判反対闘争が起こるが、全農埼連は、檄を出し、「労働者農民無産大衆の味方」「布施弁護士懲戒裁判絶対反対だ!」と訴える。
しかし32年11月、布施に大審院懲戒裁判所で弁護士除名の判決が確定、33年3月には新聞紙法違反容疑事件で「禁固3ヵ月」が確定する。その入獄直前3月30日、渋谷宛に「カクテイ アサッテユク フセ」と電報が届く。33年9月、布施は日本労農弁護士団の治安維持法違反容疑に連座して再度検挙され、35年3月、保釈出所する。渋谷もまた、37年10月、埼玉人民戦線事件の容疑により検挙されてしまうが、この35~37年に、二人は濃密な文通を行い、さらに親交を深めていく。
35年3月、保釈された布施はすぐさま渋谷に「昨日無事帰宅致しました」と知らせ、5月5日付では「東京の今日はトテも好い男の節句です。晩は孫の進君に呼ばれて往きます」と、孫の初節句を喜ぶ。36年3月には布施の三男杜生の希望で渋谷の詩集が贈られ、4月のはがきには「『野良に叫ぶ』の記念著作ありがとうござゐました。私は五六篇杜生君に読んできかせて貰っただけであとは杜生君が読んでゐます」と、後に獄死してしまう杜生の穏やかな日々が綴られる。渋谷文庫に残る書簡類からは、公的な発言では明かされない、布施の感性、家族への愛情が浮かび上がる。また布施から公判準備書面への意見、掲載雑誌の感想を求めるなど、共に農民運動を闘う中で、二人は心を許しあう間柄を築いていたことがうかがえる。布施はあくまでも農民の感覚を持つ渋谷を評価し、渋谷は、強靭な精神力と人権意識に培われ、当時の土地制度における貧しい農民を心から理解し接する布施に、全幅の信頼を寄せ、その豊かな人間性に魅かれていったのではないかと推察する。
敗戦後、渋谷は布施と再会し、49年、「弁護士布施辰治誕生七十年記念人権擁護宣言大会」に出席し、発言している。53年、「故布施辰治告別の会」では、葬儀委員の一人を務めた。
渋谷の心には、布施は師と仰ぐ人物として、生涯忘れることなく刻まれていたのではないだろうか。
(参考文献 拙稿「渋谷定輔と布施辰治」『布施辰治植民地関係資料集Vol.2』布施辰治研究資料準備会 2006年)



布施辰治と石巻 ― 亀山 紘 石巻市長 ―

 布施辰治は1880年(明治13)に、蛇田村(現石巻市蛇田)南久林に生まれています。
 布施辰治は生涯、故郷へ深い思い入れをもっていたことは周知のことだと思います。
 ところで、布施辰治と故郷蛇田については、御子息布施柑治氏の『ある弁護士の生涯』の冒頭で触れられているほか、明治大学の阿部裕樹氏の「郷里・蛇田村の経済的・社会的状況と布施辰治」というすばらしい論考があり、私もこの論考を参考にしてお話を進めていきたいと思っております。
 さて、奥州随一の港と言われていた「石巻」は、全国からさまざまな人々が集い、そのため保守性が薄く、新しいものを受け入れることに抵抗が少ない風土であったといわれています。
 たとえば、明治維新後、キリスト教の受容もかなり早く、辰治生年と同じ1880年(明治13)に建てられた、ロシアから伝わったハリストス正教の教会堂が、現在でも文化財として保存されています。1887年(明治20)には、アメリカの福音派の教会が、日本で最初に建設されています。
 さらに港町であるため、さまざまな政治経済の情報も集まるところでした。
 そして自由民権運動も行われ、辰治が子どもの頃、1882年(明治15)には多数の結社が作られ、演説会が盛んに行われておりました。
 このように自由で新しいものを受容しやすい風土をもった「石巻」という港湾都市がすぐそばにある土地柄である蛇田村で辰治は生まれ、多感な思春期までを過ごしました。
 これに加えて辰治の父は、独特の教育を辰治に施したそうです。この点に関しましては先の二つの文献が詳しいのでここでは触れませんが、辰治の思想の形成に蛇田村とその隣の「石巻」が果たした役割は相当大きなものであったことは間違いないと思っております。
 さて、先ほどの阿部氏の論考によれば、当時の蛇田村は、「都市」であった石巻町の郊外として野菜栽培による現金収入があり、それなりに暮らしやすいところであったとはいうものの、地主制が展開し、耕地の相当部分が小作地となっていたようです。
 小作争議、そして石巻と布施辰治といえば触れなければならないのは「前谷地事件」でしょう。
 旧石巻市発行の『石巻の歴史第2巻下の2』から引用します。
「一九二八年(昭和三)、世の注目を集めたのは、小作米納入方法と小作地取り上げに端を発した桃生郡前谷地村(河南町)(亀山註現石巻市前谷地)の巨大地主斎藤善右衛門家と小作人側を援護する日本農民組合との争議であった。地主の小作地取り上げに抵抗して蛇田や鹿又の支部をはじめ一三支部四五〇人といわれる組合員が共同耕作の田打ちに参加し、検束にかかった石巻警察署長指揮の警察官と乱闘になった「前谷地事件」である。この結果、小作地取り上げの中止と耕作権の保障、滞納小作料の三か年賦などが約束されたが、組合側指導者の逮捕が行われた。布施辰治が弁護に活躍したことはいうまでもない。」
 まさに弱者の味方布施辰治の面目躍如というところでしょうか。
 もうひとつ布施辰治と石巻として必ず取り上げなければならないことは、蛇田小学校への種々の貢献であります。
 本市に御遺族から寄贈された「布施辰治関係資料」には母校である蛇田小学校関係の資料が残されています。
 蛇田小学校は1873年(明治6)の学制公布と同時に開校した市内でも最も古い学校の一つです。もちろん布施辰治も卒業生の一人です。
 蛇田村は教育熱心な地域だったそうで、学校は大切にされ、1926年(大正15)には県内最初と思われるコンクリート校舎を建てています。
 辰治は、1940年(昭和15)に「點線ノート」を児童に贈っています。その際のあいさつ文が残されていて、そこには母校蛇田小学校への深い思いがつづられています。
 その2年後には辰治が中心となって校旗を献納しています。
 辰治の名前で寄附のお願い文書を蛇田村出身者に送り、資金を集めて校旗を製作して、母校へ献納した記録があります。
 このとき一口3円とし、なるべく10口の寄附を依頼していますが、多くの蛇田村出身者が快く寄附に応じ、300円の目標金額を大きく上回り、396円もの金額が集まりました。
 そして1942年(昭和17)7月に献納式を実施しました。その後児童からの自筆の礼状が辰治に送られています。
 校旗は249円35銭で製作され、残りのお金で、蛇田村を「八景様」に写真撮影してアルバムと絵葉書を作っています。この写真は、やはり同校出身の写真師の撮影になるもので、戦中の蛇田村を知る貴重な資料でもあります。
 このように布施辰治は、単なる東京の「人権派弁護士」であるだけでなく、常に故郷をおもい、故郷のために尽くした人でもあります。
 最後に阿部氏の論考から次の言葉を引用して拙文を終えたいと思います。
「・・・布施は東京の弁護士であるが、彼の基礎は「郷里」であり、いつまでも「郷里」を誇りにしていた。したがって、布施の言動や振舞いには、どこか蛇田村の百姓・・・と同じような雰囲気が残されていて、大石氏(亀山註孫の大石進氏)はここに「篤農」を感じられたのではないだろうか。」



弁護士 布施辰治 ― 松井繁明 前自由法曹団団長 ―

布施辰治(敬称略。以下同じ)が1953年に死去して今年(2010年)で57年になる。生前の布施に接したことのある自由法曹団員もごくわずかとなった。おおくの自由法曹団員にとって布施の名は、団創設者のひとりとして記憶されていても、そのイメージは不鮮明であろう。
 布施辰治とは、どのような人間、弁護士であったのか-。現代を生きるわれわれにとっても、尽きない興味の対象ではある。
 布施辰治は、-そして山崎今朝弥ほか自由法曹団創立にかかわった弁護士群像は、おそらくわが国で最初の「民衆の弁護士」であった。
 自由民権運動の影響もあって明治時代から日本の弁護士のなかには、権力の弾圧にたいし民衆の人権を護って闘う人びとが少なからずいた。大井憲太郎、花井卓蔵、鵜澤総明、平出修、今村力三郎らの名が知られている。しかしこれらの弁護士らは、民衆の人権擁護のためにすぐれた専門技術を提供したものの、みずからは小ブルジョア的立場を離れることはなかった。これにたいし布施、山崎らは、みずからを民衆の側におき、民衆の運動とともに歩んだ。法廷では、いかなる場合にも民衆の視点から権力の横暴をあばき、資本の強欲を批判し、追及した。ここにはじめてこの国に「民衆の弁護士」の出現をみたのである。
 「従来の私は、〝法廷の戦士とも言うべき弁護士〟だったが、今後は〝社会運動の闘卒に他ならない弁護士〟として生きることを、民衆の一人として民衆の権威のために宣言する。」
 これは、布施が1920年に発表した「自己革命の告白」に記された、胸を搏つ一文である。
 布施辰治が社会主義者ではなく、トルストイなどの影響をうけた人道主義思想の持ち主であったことなどがよく論じられてきた。しかしそのことはさしたる問題ではない、と私には思われる。状況を広く正確に認識し、それにもとづいて何をなすべきかを決定する、その決定を必ず実行する。-これは誠実な知識人の生き方にほかならず、布施はまさにそのように生きた。社会主義者なら、当然にそう生きなければならないはずである。布施が社会主義者であったかどうかではなく、布施がどのように生きたかこそが重要なのである。
 「自己革命」を遂げた布施辰治は、自由法曹団創立にあたって指導的役割を果たし、関東大震災では、亀戸事件や大杉栄らの虐殺が憲兵隊のしわざであることを暴露し、朝鮮人虐殺を糾弾した。治安維持法の制定に反対し、同法による日本共産党弾圧事件では率先して弁護にあたった。大小の労働争議・小作争議支援のために全国を駈けめぐり、朝鮮や台湾にもたびたび渡り、日本帝国主義による残酷な弾圧にたいしその地で苦しむ民衆とともにたたかった。布施にたいする権力による弾圧もまた苛烈なものであった。大阪での弁護士活動を口実に弁護士資格を剥奪し、治安維持法違反事件で下獄させてしまったのである。辰治が愛した三男杜生も治安維持法違反で服役中の京都の刑務所で獄死した。布施の苦難は想像を絶するものであった。
 -これらのことは、さいきん特に比較的よく知られるようになったところでもあり、また、われわれが今も汲みとるべき多くのものを含んでいる。
 それはそうなのだが、私が注目したいのは布施辰治のたぐいまれな勤勉さと弁護士としての力量である。布施は一時期年平均250件をくだらない事件を取り扱っていた。東京監獄在監の未決人員700人のうち布施は52人を担当していたという(大石進)。超多忙の弁護士であった。
 布施は前述のとおり下獄させられ千葉刑務所に収容されたが、そのさい自分の扱った刑事事件を回想して記述した。その内容が布施柑治「布施辰治外伝」(未来社)に要約して8件紹介されている。いずれも、政治や運動とは無関係な殺人事件などであるが、そこでの布施の弁護活動はじつに生彩に富み、興趣がつきない。
 たとえば、激情にかられて親分を殺害した元博徒が旧刑法時代の謀殺(計画的な殺人)で起訴された事件(死刑を免れない)。被害者の妻は、被告人をすでに2件の死刑判決(欠席裁判)をうけている職業的殺し屋と同一人物と主張する。その男を30歳代のころ世話をしたことがあり、そのさいイレズミはしていなかったと証言する。布施はわずかな手懸かりから被告人のいうイレズミ師を探しあて、被告人が20歳のときにイレズミを彫ったことを発見する。判決は謀殺をしりぞけて故殺(無計画な殺人)と認定し、無期懲役とした。-まるでペリー・メイスンばりの弁護活動といわなければならない。
 布施辰治の広範な社会的弁護士活動の根幹には、弁護士としての高い力量が備わっていたのである。弁護士が社会的活動をおこなう前にまず弁護士としての力量を高めなければならない、などという段階論を私は言いたいのではない。布施にあっては、両者は同根の双樹なのであって、それぞれの経験が他を支えあう関係にあったのではないだろうか。
 現在、全国の自由法曹団員は1900人を数える。特異な才能、能力をもつ団員も少なくないが、布施辰治に匹敵するような弁護士をすぐに想い浮かべることはむずかしい。けれども自由法曹団員ならだれもが、布施が目指したような社会の実現を追求しようと活動している。1人では無理でも、5人、10人さらに多くの団員が協働すれば、布施に近づけるだろうと(すくなくともそう信じて)たたかっているのである。
 そうであるだけに、より多くの団員が布施辰治の生き方、活動について知ってもらいたい。映画「弁護士 布施辰治」の完成も近いときく。この映画の製作や上映運動などに協力することをきっかけに、布施に関する著書などに読みすすんでほしいと思う。



在日韓国人と布施辰治 ― 梁 東準 ヌッポンフォーラム理事長 ―

江戸時代から明治前期まで、日本に住んでいる朝鮮人はほとんどいませんでした。記録によると、日露戦争が始まった1905年に233人の朝鮮人(そのほとんどが留学生)が在住していたとあります。
しかし、1910年の「日韓併合」により、次第に増加し、「3・1独立運動」が起きた1919年には2万6600人ほどになりました。
近代民族運動のさきがけといわれている「3・1運動」の引き金となったのが、同年2月8日、東京在住の朝鮮留学生による「2・8独立宣言」でした。東京神田の朝鮮キリスト教青年会館に、在東京留学生のほぼ全員の600人が集結し,声高らかに「独立宣言文」を読み上げました。朗読後の演説集会は駆けつけて来た日本当局によって阻止、強制解散させられ、中心メンバー27人が逮捕されてしまいました。弾圧されればされるほどに、独立への思いは熱く燃えあがり、留学生の多くは、その意志を伝えるべく、故郷に戻って行ったのです。メンバーの一人だった宋継日は宣言文を帽子に縫いこませて、秘かに祖国に持ち帰りました。
この2・8事件で逮捕起訴された留学生たちを無償で弁護してくれたのが布施弁護士でした。彼は、かって欧米が日本に押し付けた不平等条約よりもひどい日鮮修好条約を武力で押し付け、植民地にした日本の行動は許されざる蛮行であると、真っ向から批判したのです。
「朝鮮人が怒るのは当然ではないか!」
「民族の尊厳を守ろうと、日本の官憲と戦う彼らの姿勢は、全く正しい」
という布施弁護士の弁舌は、多くの朝鮮人の心を鷲摑みしました。日本人の中にも、朝鮮人の心を理解し、立ち上がってくれる人がいたことに驚き、感動したのです。
1923年、布施弁護士は、初めてソウルに渡り、多くの青年・学生に「世界の動きと解放運動について」講演して回ったのです。訪れる先々で大歓迎を受けた布施弁護士は“心ある日本人”として朝鮮人の心に深く刻まれたのです。
この年の9月1日未明、マグニチュード7.9の関東大震災が勃発しました。死者・行方不明者10万人以上、全壊建物12万8000棟、全焼建物44万7000棟という未曾有の大災害でした。家屋の倒壊や火災などで混乱している最中、「朝鮮人があちこちで放火や暴動に走り、井戸に毒を入れている」という流言飛語が流され、多くの無辜な朝鮮人が、一般市民を巻き込んだ自警団や治安担当者たちによって虐殺されました。その数、朝鮮人6000人以上、中国人700人余りと言われています。
この痛ましい状況を耳にするや、布施弁護士はいち早く市街に飛び出し、逃げ惑う朝鮮人を助け、匿って回ったのです。そして、朝鮮人虐殺の真相究明と抗議活動に精力を傾けられたのです。地震は自然災害であり、家屋の倒壊や火災は個々人が実体験したように、地震によるものなのに、それを朝鮮人のせいにするとは、何と言う恥ずべき行いだ、と、力説したのです。
震災から3年後の1926年、朝鮮人保護という名目で検束されていた朴烈とその妻金子文子が、突然大逆罪で起訴されました。二人が皇太子の結婚式に爆弾を投げつける計画を目論でいたとされたのです。これは、震災時の朝鮮人虐殺を隠蔽するためのデッチ上げではないかと疑いを抱いた布施弁護士は、直ちに、弁護活動を開始したのです。朝鮮人に対する偏見と差別感が強く支配する日本社会で、しかも天皇家にかかわる事件の容疑者とされた朝鮮人を弁護する難しさは、察して余りあります。「非国民」という罵倒やレッテルを跳ね除けながら行動するには、勇気と固い信念が必要だったことでしょう。
裁判は、抑圧者と被抑圧者の対立構図を前面に押し出した熾烈なものでしたが、大逆罪に問われた者は死刑以外あり得ませんでした。その後、無期に減刑されましたが、妻の文子は、獄中で自殺。朴烈は敗戦後「在日朝鮮人居留民団」を創設し、その初代団長になりました。妻文子の遺骸は布施弁護士の尽力で韓国に埋葬されました。
私たちの先輩の一世たちは、この日本で言葉に言い尽くせぬ苦しみを味わいながら生きてきました。日本による「土地調査事業」で土地を奪われ、田畑を失い、流浪の民になって満州や日本に生活の糧を求めたのです。あるいは、日本へ強制連行されてきたのです。戦後も貧しさゆえに、厳しい差別ゆえに、闇市でしか糊口をしのぐことができなかった多くの在日に理解を示し、助けの手を差し伸べてくれたのも布施弁護士その人でした。
「ドブロク作りに手を染めた朝鮮人を裁ける権利など、日本人には無い」とした彼の言葉は“弱者と共にありたい”とする布施弁護士の「生きる証」そのものだったと思います。日本の植民地支配を不当だと断罪し、朝鮮人の人権など一顧だにされなかった時代に、誰よりも先がけて、”対等平等”を声高に代弁して下さった布施弁護士。常に在日の目線で物を見て、感じながら行動し続けた布施弁護士。その偉業の数々は、私たち在日韓国人にとって決して忘れられるものではありません。私たちと共に歩んで下さった布施弁護士の崇高な精神を讃え、後に続く後輩たちに広く語り伝えていくのが、私たちに与えられた役割だと思っています。



布施辰治先生に学ぶ ― 納谷廣美 明治大学長 ―

 このたび、弁護士・布施辰治先生のご功績が映画化されますこと、まずもって、心よりお慶び申し上げます。
 布施辰治先生は、私たち明治大学関係者、とくに法学部出身者にとって、法律実務家として活躍された大先達にあたります。1冊の古い本に、ご子息の布施柑治氏が書かれた『ある弁護士の生涯―布施辰治―』(岩波新書)という本があります。私自身も、明治大学法学部の学生時代に同本を読んで、同じ大学の出身者に布施先生のような立派な先輩(弁護士)がいたことを知り、同先生のような弁護士になりたいとの思いを抱いた記憶がよみがえります。いわば、私が法律学者(弁護士)になる一つのきっかけを与えてくださった存在といえます。
 2004年、布施先生は、日本人ではじめて大韓民国(以下、韓国という。)の政府より「建国勲章」を受章されました。この年は、ちょうど私が学長に就任した年でありましたが、本学においても、布施先生の受章を記念したシンポジウムを開催させていただきました。その際には、ご親族で日本評論社相談役の大石進氏、韓国大使館の方々、韓国において布施先生の顕彰運動に長年ご尽力されてきた鄭畯泳氏、また韓国において布施先生の業績を研究されている李文昌氏、さらには日本における布施辰治研究の第1人者で名古屋市立大学名誉教授の森正氏など、多くの関係者の皆様にご参加いただきました。
 この受章は、本学としても、大変な栄誉でありました。その一方で、布施先生が韓国政府から表彰を受けた意義というものを、私たちは歴史的な観点から今一度見つめ直すきっかけともなりました。韓国を併合するという過去の歴史、またその歴史的な流れの中で、日本と韓国の間にさまざまな障害があったことは事実ですし、それにともなう人権問題その他が起きたことも事実です。そして、今なお、これらの歴史が尾を引いた問題が存在することも事実だと思います。しかし、私たちは、それら数々の弊害を乗り越えて、今後さらに日本と韓国との交流関係を深めていかなければなりません。
 『生きべくんば、民衆と共に。死すべくんば、民衆の為に。』これは、有名な布施先生の思想として伝えられています。人民大衆の味方、正義の弁護士と称される布施先生の運動は、弁護士資格の剥奪に至るほどの相当の「覚悟」を決してのものでした。このことは、日本人として、知っておくべき事実です。そして、その「覚悟」から、人は、「正義」および「自らの置かれている立場」、「自らの役割(使命)」をあらためて考える必要があると、私は考えます。
 最後になりましたが、このたびの映画「弁護士 布施辰治」により、日本のみならず全世界において、布施先生の偉大さが一人でも多くの方々に伝わり、後世に語り継がれますことを心より切に願いまして、私の挨拶とさせていただきます。



ホームページの立ち上げに当たって ― 阿部三郎 弁護士 ―

 日本人で初めて韓国の建国勲章をうけた弁護士、布施辰治先生の生涯を振り返るドキュメンタリー映画「弁護士布施辰治」の製作が開始された。
 布施辰治先生は、「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆のために」を生涯のモットーとして、明治、大正、昭和の50年間を生きた社会派弁護士として著名である。
 1880年、宮城県石巻市で生まれた布施辰治先生は、上京して弁護士となられ、1920年5月「自己革命の告白」を公表されている。40歳のときであった。以後の弁護活動を「官権の人権蹂躙に泣く冤罪者」「財閥の横暴の柾屈に悩む弱者」「心理の主張を圧迫する筆禍舌禍の言論犯」「無産階級の社会運動の迫害」事件に限ると宣言されている。
 その後の先生は、虐げられた人民の弁護に奔走。
21年には、自由法曹団を創立、23年9月1日に起きた関東大震災のとき各地で生じた朝鮮人虐殺問題に関する自由法曹団としての事実解明活動のこと、日本共産党への大弾圧「3・15事件」の弁護活動のなかで弁護士資格を剥奪され、さらに39年、治安維持法違反で懲役2年の刑を受けるまでに至る。
 第二次世界大戦の敗北で弁護士資格を回復された後、布施先生は、三鷹事件、松川事件、メーデー事件などの弁護活動を精力的にこなし、53年9月13日、73歳の生涯を閉じられたのである。
 戦前における植民地朝鮮、台湾の人民の救済活動は時にめざましい。朝鮮のかかわりでいうと、布施先生は韓国併合に反対であったという。1911年には「朝鮮独立運動に敬意を表す」という見解の表明で検察の取調を受け、19年2月8日に起きた「独立宣言事件」においては、11人の朝鮮人の弁護活動に当たられている。
 「日韓の併合は、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略である。…朝鮮人民の解放運動に努力しなければならない」との信念に基づき、その後もたびたび朝鮮に渡り、朝鮮民衆の弁護を行っている。こうして先生は「日本のシンドラー」とも讃えられ、韓国政府は04年10月、朝鮮独立運動に寄与した人物に与える「建国勲章」を、日本人で初めて布施先生に授与されたのである。
 日本の戦前の植民地政策を中心とする戦後処理という負の遺産を抱えながら、2010年で日韓併合100年を迎えるときに当たり、そこに新しい出発点となるような人的、文化交流の積極的な推進が行われるべきところ、その原点に置かれるべきは、「人道」ということであろう。そしてその人道について、さらに弁護士としての感覚をもって思いつめるなら、それは帰するところ弁護士布施辰治先生の弁護活動を通じての「生きざま」を我が身をもって少しでも知ることにあるのではないかと思えてならない。
 もう私も弁護士生活55年の後期高齢者だ。その立場で何をすればいいのか。
このようなことから本年11月6日(金)和歌山市で開催される第52回日弁連人権擁護大会で全国弁護士各位にこの「弁護士布施辰治」のドキュメンタリー映画を知っていただくことはどうだろうか思いつく。
 早速10月14日午後、この映画の製作スタッフの方々と共に日弁連を訪問、執行部各位に説明を行い人権大会当日における協力を要請したところ、執行部は即座に快諾され会内関係機関と諮られることとなった。
 幸いにも人権擁護大会当日は、大韓弁護士協会代表の方々も日弁連の招待に応じて出席されておられ、この大会の席上で映画製作のスタッフー同も挨拶を申し上げることができたという。ところがなんと11月19日、大韓弁護士協会常任理事会で、本ドキュメンタリー映画製作について全面的に支援されることを決定されたという嬉しいニュースが入ったのである。
 今後製作スタッフの韓国ロケハンも行われるところ、この協会の支援決定は非常に有難いことである。
 このようなことでこの映画を通じて日韓弁護士問の絆の構築のためのきっかけを作ることができるならば、正に布施精神を体しての、人道面から負の遺産に挑む吾々の戦後処理につながるものも生じてくるのではないだろうか。
 ホームページの立ち上げに当たって一言所感とした。
 それだけにこの映画の成功を期してやまないところである。

韓国語訳:THE NAEWAY DAILY NEWSに掲載されています。
ページ下の(詳細はこちら)からご覧になれます

詳細はこちら



ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」についてのご質問、ご要望はお電話(03-5840-9361)か当ホームページの メールフォーム よりお問い合わせください。 メールフォーム